中学校2年生の時に友達から借りた、山田悠介の『ライヴ』を読み、本を読む楽しさを知ってから数年後。
高校生のわたしは、衝撃的な一冊に出会ってしまいました。
その本の名は『ジェノサイド』
作家さんの名前は、高野和明。
単純にタイトルの意味だけを日本語で表すと、というかGoogleで検索すると「その共同体や民族を滅ぼすほどの大量殺害。集団殺戮」
一般的に想像する女子高校生(自分が一般的だったかどうかはわからないけれど)が手にする本としては、少々過激なような気がします。
しかし女子高生時代のわたしは、学校に黙って行っていたパン屋でのアルバイト代を、通学定期に使う以外は全て本に捧げるという行動を頻繁に繰り返していて、しかもそれが、当時の自分にできる一番かっこいい行為だと思っていました。
(本屋さんを歩き回って「あ!」「お?」と心に引っかかった本を手に取って、5000〜15000円分くらい一気に買う)
その行為は学校帰り途中の、アミュプラザの紀伊國屋で頻繁に行われていて、『ジェノサイド』はその中で手に取った一冊です。
これでもかというほどの評価の言葉と共に、平積みされていた一冊。
その頃のわたしは、変わった本を読むこと。そして分厚い本を読み切ることに憧れを抱いていて、ジェノサイドは当時のわたしの理想を詰め込んだような一冊でした。
評価されているけど、メジャーではなさそう(わたしの周りでは話題になっていなかった)
そして、理想的な分厚さ。
一気買いした本の一冊に過ぎなかった『ジェノサイド』
しかしその後、読み始めたわたしの脳みそを言葉の金属で滅多打ちにし、とてもじゃないけど一気読みできない。
息切れしながら、全部読み切った。
残酷でグロテスクで恐ろしいくらいの展開が待っている物語。
読了から10年近く経った今でも、激しく心に刻まれている一冊です。
「あ、そうですよね。他の小説も…ですよね」
先日鹿児島県の天文館近くのBOOKOFFに、30分ほど時間を潰すために遊びに行きました。
わたしのBOOKOFFの歩き方は、中古のゲームコーナーを一通りチェックし、値段を確認。
その後は文庫本コーナーへウロウロ…が大概ですが、この日は時間を潰すためだったので、あえてノロノロと店内を歩きました。
「今ポケモン売ったらこれくらいになるのかあ」
「約束のネバーランドの新刊売ったらこれくらいかあ」とボヤボヤしながら、中古のゲームコーナーを通って文庫本へ。
特に何も考えず、ツーっと両サイドを本棚に囲まれながら進んでいると「お?」と目を引く一冊が。
目を引いた理由は、その本が背表紙ではなく、表紙を向いていたから。
タイトルは『6時間後に君は死ぬ』
「えらい物騒なタイトルやな…」と内心思いつつ、作者部分に目を向けると、「ん?見たことあるぞ?」
ひとまず手に取り、パラパラとめくってみる。
自然な流れから「この人、どんな本書いてるんだろう?」と棚に目を戻すと『ジェノサイド』
これはわたしの癖のようなものなのですが、本屋さんにいるとめっちゃ独り言が出ちゃうんですよね。
正確には音にならない独り言。自問自答というやつ。
この時の無音の独り言は「あ、そうですよね。ジェノサイド書いた人は他の小説も書いてるに決まってるよね」
中学2年生の時に山田悠介の『ライブ』に度肝を抜かされてから、手に入る範囲の山田悠介作品は片っ端から見ていたのに、なぜかジェノサイドを書いた高野和明については「他の作品も読んでみよう」とはならなかったんですよね。
気づいてしまえばなんのその。
至極当たり前なことに、冬のBOOKOFFで気づきました。
閃きの後の行動は単純で、読みますよね。
『6時間後に君は死ぬ』
本屋さんで立ち読みすると尿意に襲われる体質なので、普段はほとんどしない立ち読みですが、この日はガーっと、多分30ページ以上は読んだんじゃないかな。
読み進めながら頭の中で、再び無音の独り言。
「読み終わるのはまずい。買うか?買わないか?」
結果としては、手持ちに余裕がなかったのと(500円以下だったけど)、ガッツリ読んで自分のものにしたいから新刊を買うと決断し、その場は立ち去りました。
10年ぶりの再会と、4〜5年ぶりの再会と
時間潰しのためのBOOKOFFを訪れたことで高野和明作品と、約10ぶりに再会しました。
『6時間後に君は死ぬ』は映像化もされているらしくて(文庫の解説をちょっと読んじゃった)、続きを読むのが楽しみです。
再会と言えば先日、ある方と4〜5年ぶりにお会いしました。
今は拠点として暮らしている南九州市頴娃(えい)町に、わたしが初めて足を踏み入れるきっかけになった人。
その人の元を訪ねるという友人の車に同乗して、連れていってもらったのが縁の始まりで、移住してから「どこかで会えないかな〜」と思ってました。
今考えればお互いFacebookにアカウントがあるから、メッセージすればいつでも会えたんだろうけど「機が熟せば自然と会えるっしょ」と、あえて行動には移していなかった。
去年末に、とある場で一方的に存在を確認することはできたんだけど、話しかけることはできず、再び機が熟すのを待つことに。
そしたら先日とうとう熟れた機会がやってきて、ようやっと目を見てご挨拶できました。
幸いなことに、あちらも覚えてくれていて写真まで撮りました。
自分から行動を起こして機会を作ることも大事だけど、庭の果樹が色付くのを眺めるように、機が熟すのを楽しみに待つのも素敵だと思う。
10年ぶりの再会の高野和明作品も、きっと良いタイミングだったんだな。
そんなことに思いを馳せる、グッと冷え込んだ火曜日(1/14)の朝です。