私が暮らしている鹿児島県南九州市頴娃町(えいちょう)には、番所鼻自然公園という場所がある。

地元では最初の名前を取って、「ばんどころ」と呼ばれている。

ばんどころは、東シナ海に面している公園で風景が魅力的だ。

公園の大体どこからでも海と「開聞岳(かいもんだけ)」という山を眺めることができる。

開聞岳はその美しい円錐形から、薩摩富士と呼ばれることもあり、元日の朝には海から昇る朝日を目当てに、多くの観光客が訪れる。

ばんどころの風景の美しさを証明するものとして、公園内に「伊能忠敬先生 絶賛の地」と刻まれた記念碑がある。

なんでも日本地図作成の旅の途中に訪れた伊能忠敬が「天下の絶景なり」と、ばんどころの風景を賞賛したそうだ。

日本中を自らの足で歩き回った伊能忠敬。その道中は厳しい場面も多かっただろうが、きっと数えきれないほどの美しい風景も見たに違いない。

そんな歴史上の偉人が認めた風景……といえば、大体の人が「えー! すごいね」と口に出す。

とはいえ、注目され始めたのはここ10年ほどの話である。

今では市内の観光地ランキングで上位に入っているが、地元のおっちゃんによると、昔は天下の絶景には程遠い、雑草と藪に覆い隠された場所だったらしい。

市外の観光客数、0人。

という驚きの状態から、年間15万人が訪れるようになった背景には、埼玉県からの移住者(以下:Aさん)の存在がある。

首都圏からの移住なんて今はもう珍しくないが、その移住者が頴娃町にやってきたのは2008年のこと。

この年の流行語大賞は、天海祐希の「アラフォー」と、エド・はるみの「グ〜!」だといえば、けっこう前のことのように感じられるのではないだろうか。

頴娃町には元々、地元有志を中心に立ち上がったNPO法人頴娃おこそ会(通称:おこそ会)という組織があり、地元産の芋を使った焼酎づくりなど、様々な地域活動を行っていた。

「跡継ぎのいるまち」をスローガンに、移住者の受け入れにも積極的だったおこそ会は、Aさんの移住初日に数人で家を訪れ、庭の草刈りを行ったらしい。

引っ越し祝いならぬ、引っ越し草刈り。

都会暮らしの人には「なんじゃそりゃ?」だろうが、街灯がなく、夜になると真っ暗になるような田舎に住む私たちにとって、体力仕事の草刈りは非常に助かるのだ。

移住して日が浅い場合、ガソリンやバッテリーで動く刈払機の扱いに慣れていないことも多いため、本当にありがたい。

人によっては、引っ越し祝いより嬉しい……はず。

そんなつながりから、Aさんは自然な流れでおこそ会に参画することになり、メンバーと共に様々な地域プロジェクトを実践していった。

具体的には、番所鼻自然公園の中に鐘を建てて観光地化を図ったり、町内の飲食店を紹介するガイドマップを作成したり。

2015年からは町内の空き家を改修するプロジェクトも始まり、築100年ほどの建物を地元の有志や大学、高校と連携してリノベーションを重ね、地域の誰もが使える交流拠点を誕生させた。

この空き家再生プロジェクトは年々広がりを見せ、これまでに11軒の空き家がゲストハウスやヨガ教室、住居やシェアオフィスに生まれ変わっている。

空き家を使っているのは、いずれもここ数年の間に市外から引っ越してきた若者たちだ。

実はこの文章を書いている私も移住者で、Aさんの多大なサポートのおかげで、家探しにはそれほど苦労せずに済んだ。

現在は、9軒目に再生された物件を住居として使わせてもらっている。

使わせてもらっている……とはいっても、家賃は発生しているわけで、地域にとっては新しいビジネスが生まれたことになる。

Aさんが移住して自ら仕事を生み出していったように、頴娃町に集まる私たち移住者もそれぞれのやり方で仕事を作りながら、自分の食い扶持を模索し続けている。

私の場合は、地域おこし協力隊(通称:協力隊)という総務省の制度を利用して、頴娃町での暮らしをスタートさせた。

地域おこし協力隊とは 、人口減少や高齢化率が高い地域と地域外の人材が協力して、地域を盛り上げる企画や住民支援といった協力活動を行いながら、その地域への定住・定着を図る取り組みのこと。

業務内容は自治体によって異なり、任期は最大3年までと定められている。

すごく簡単に説明すると、3年間は給与をもらいながら生活ができる制度ということである。

私が協力隊になったきっかけは、協力隊の受け入れを行なっていたAさんに「ライターの経験を活かして、地域の情報を発信してみない?」と声をかけてもらったから。

大学を卒業してほとんどの時間を気ままな個人事業主として過ごしてきたせいか、はじめは組織に所属することに抵抗があった。

けれど、不安定な収入に心配もあったので……。

いや、正直に言うと固定給という言葉に惹かれたこともあり、エイやっと地域づくりの世界に飛び込んでみることにした。

間も無くしてコロナ禍で人と会えない状況になり、「なんのために地域おこし協力隊になったんだ……」と肩を落とす時期もあったが、Aさんや地元のお姉さんに相談しながら、なんとか活動を続けることができた。

今ではこの制度とAさん、そして頴娃町の人たちにとても感謝している。

3年間って長いようであっという間。

私は来年の1月で任期満了を迎え、再び気ままな個人事業主に戻る。

心配していた仕事に関しては、この3年間で多くの出会いとチャンスをいただき、確実にステップアップできた。

今のところ、鹿児島県内の一般企業に勤めている人ぐらいの収入は確保できる見込みが立っている。

もちろん、任期満了後も頴娃町での暮らしを続けていく。

Aさんのように……は積み重ねてきた経験が違いすぎるし、同じような動きはできないけれど、いつか私の元に「頴娃町で暮らしたい」という人が現れた時は、Aさんが私にしてくれたように、何か力になってあげたいと思う。

 

 

ーー

本記事は、天狼院書店が主催する「ライティング・ゼミ」で提出した課題文です。

2022年10月提出。

2025年現在は、頴娃町に暮らしはじめて5年が経ちました。

高校入学以降、2〜3年ごとに引っ越しを繰り返してきたわたしにとって、いつの間にか実家の次に長く住んでいる場所になりました。

一昨年〜昨年は、ちょっと地域の中でいろいろと感じることがあって、正直今は、この文章を書いた2022年のように、”いつか私の元に「頴娃町で暮らしたい」という人が現れた時は、何か力になってあげたいと思う”ほど、素直な気持ちは持てなくなっています。

だからといって、頴娃町暮らしの楽しかったことや嬉しかったことが無くなるわけではないし、傷ついた部分はいずれ癒えていきます。

もし本記事を読んだ人の中で、移住に対して「思ってたのと違った」とか「あんまり上手くいかないな」と思っている人がいたら、「深く考えすぎなくて大丈夫」と伝えたいです。

タイトルにあるように、”地方暮らしのきっかけも、楽しさも、苦味も「人」がつくるもの”ですが、それを癒すのは、空の広さだったり、ちょっと散歩した時に目に入る木々の色付きだったり。

川のせせらぎや、小鳥たちの鳴き声などの自然です。

人間関係で起こる喜怒哀楽と、自然という大きな器の狭間で自分らしさを見失わずに生きていく……ことが、地方移住のひとつの答えなのかもしれません。

 

過去に書いた文章を公開することにした背景は、以下の記事からご覧いただけます。

2025年あけましておめでとうございます