これまでなんとなく「自分の子どもが何かしらの障害を持って産まれてきたらどうしよう」という漠然とした恐怖を抱いていた。
これは自分が子どもを産める体になってから、時々頭に浮かんでいた不安である。
数字で数えると初潮がきたのが12歳だから、すでに15年ほど抱えている、誰にも言えない悩みであるといっても過言ではない。
わたしのように考えている20代は、案外多いと思う。
とはいえすぐにでも子どもを召喚できる環境ではないし、気持ちでもないので、それらの恐怖はある程度時間が経てば、宙に浮かんだ温かいスープの湯気のように消えていった。
そして忘れた頃に頭の端に浮かんではまた、解決することなく勝手に霧散していった。
存在の全肯定
昨日、アムアの森に行った。
「いつか生で聴いてみたい」と思っていた高木正勝さんと、8月のグッドネイバーズジャンボリーで初めて目にしてあっという間にファンになったotto&orabuの演奏を感じるために。
18:00開場、18:30開演。
申し込みが早かったおかげか、なんと前から2番目の席だった。
ピアノを演奏している高木さんの顔がよく見えて、少しだけど反射して手元も見えるとてもいい席だった。
ottoの表情や楽器を奏でる手元もよく見えたし、orabuが叫ぶ時にお腹に添えた手やクラップのリズム違いもよく見えた。
芸術に対する感想に正解はなければ、間違いもない。
だからこそもう我慢できないから書くけど、昨日の2時間で15年間抱いていた「自分の子どもが何かしら障害を持って産まれてきたらどうしよう」という不安は「ここがあるから大丈夫」に変化した。
叩いて奏でて吹いて叫んで。
思わず膝がリズムを刻んで。
ああ、命ってこうだよね。
わたし達ってこういうことのために産まれてきたよね。
リズムにのった体が止められなくて、存在全部を肯定されて。
気持ちいい2時間の音楽が、15年抱えた不安を軽やかにさらってくれました。
成功も失敗もないな
音楽の渦の中で解放されていく自分を感じながら「この世界にはやった、やらないはあるけれど、成功や失敗はないな」と思った。
頭に浮かんだドキドキを形にするかどうか、できるかどうかはあるけれど、それに対する成功や失敗ってないな。
頭に浮かんだことがあるなら、やればいい。
存在だけでなく思考すらも全肯定されて。
あの場のわたしが求めたものは、こうやってあの場で感じたことを文章として表現し、残すことだった。
求めていたのは、それだけ。
音楽の渦の中で、文章が浮かぶ自分が更に好きになったし、自由を感じた。
そう。これは自分のために紡いだ言葉。
だからこんなにも気持ちがいい。
今日も多分、アムアの森で買ったotto&orabuのCDを聴いてしまうんだと思う。