昨夜、同年代の先輩が「わたしってもっと稼ぐ人だと思ってたけど違ったっぽい」と話していた。
車に酔いやすいわたしは、前だけ向いていて先輩の表情は見れなかったけど、ちょっと切なく聞こえてすごく共感できた。
中学生ぐらいまではわたしは、自分は割となんでもできる方だと思っていた。
なんでもできるというのは、必死にならなくても平均点ぐらいなら取れるということ。
幼い頃から背が高く、体格的にも同年代と比べて劣っていると思ったことはほとんどなかった。
そんな感じだったから将来について思いを馳せる時は決まって「プラダを着た悪魔の登場人物たちみたいに、脇目も振らず仕事に没頭するんだ」「恋人とかいなくてきっと仕事が恋人みたいな人生なんだ」と何の根拠もなく思っていた。
理由もなく成功している未来を想像していた。
でも、高校、大学と進学し卒業して社会人になった今、わたしは何にもできていない。
新卒入社した会社をたった3か月で辞め、その後のレジのバイトも半年しか続かなかった。
今は少しずつ取材に行かせてもらったりして、書く事でお金をいただけるようになってきているけどそれだけで生活できるほどは稼げていない。
時々、すごくうんざりする。
幼い頃に想像していた自分と違いすぎて失望に近い感情が沸く日がある。
自分を誤解していただけ
一見するとめちゃめちゃ暗い話だが、ここで言いたいことはそうではない。
わたしはただ、「自分の力を見誤っていただけ」なのである。
自分のことを誤解していただけ。
しかし、それでも24年間がんばって生きてきたのである。
お金は持ってないし、意外と根性はないし、すぐ逃げるけど。
えらい。
でもかわいそう。
かわいそうな理由は
「スペックが高い設定であれこれやらされているから」
そうしているのは自分自身なのだけど。
自分を疑った方が幸せになれるのかもしれない
「自分に自信がある人は、自分を信じているから」と聞いたことがある。
わたしは、この言葉を長年信じきっていた。
しかし、自分が意外となんでもはできない奴だと気づいた時から
「自分というものを疑った方が人生は良い方向に進むのではないか」と考えるようになった。
何か事を起こす時、自分を信じてしまうととりあえず「なんとかなるさ」と陽気な自分を取り繕ってしまうことがある。
それは時には必要な能力だろうけど、わたし自身に関していうとそういう思考のせいで痛い思いをしてきている。
「なんとかなるのは、なんとかなるだけの準備をしてきた人だけ」
自分を疑っていたら「準備は万全なの?」「絶対にそれしか道はないの?」「目先の利益だけにとらわれていない?」といろんな問いを総動員して、思考するはずだ。
でも今までのわたしは自分を誤解していたから、「わりとなんでもできる自分だから大丈夫!いける!」と半ばパワープレイを犯しては逃げるという負の連鎖をくりかえしてきた。
自分が痛い目を負うだけならそれでいいかもしれないが、わたしの場合は人に心配や迷惑をかけることが多かった。
だから、これからは自分をもっと疑って生きていく。
「その選択は大丈夫なの?」「他に良さそうな道はないの?」「準備はちゃんとできてるの?」と自分にたくさんの問いを重ね、1つ1つ答えを明確にしながら生きていく。
ある人の「自分はクソ」発言
先日ある人がSNSで「たまーに自分がクソみたいな奴なんだったってことを忘れてて、ビビる」と書いているのを見つけて、びっくりした。
「あなたがクソだとしたら、わたしはなんなんだ」としか思わなかった。
でも今はなんとなく、あの人が自分をクソみたいな奴と表現した気持ちがわかるような気がする。
自分は思った以上にできない奴である。
そう思うからできる部分をもっと伸ばそうと思うし、できないことはできる人に頼ろうと思える。
多分、大抵の不幸は自分のことを誤解しているために起きている。
自分はけっこうできない奴だ。
自分のことを贔屓目ではなく、客観的に俯瞰して見ることで、正しい自分の扱い方がわかるような気がする。
大抵の不幸って自分を誤解しているから起こるんだな!
自分のスペックを贔屓目にして高めに見積もるからできない時にパニックになって逃げちゃうんだな。
自分はクソだと思う事から人生は始まるのかもしれん!(知らんけど)
— 花咲里(かざり)@鹿児島のブロガー (@asuparagasu0617) 2018年2月20日